兵庫県西宮市南甲子園にかつて存在した甲子園競輪場(こうしえんけいりんじょう)。阪神甲子園球場から南へ約1キロメートルの位置にあり、かつては全国の競輪ファンで熱狂的な賑わいを見せていました。しかし、公営競技を取り巻く環境の変化と都市のイメージ戦略の狭間で、2002年(平成14年)3月をもって53年の歴史に幕を閉じました。

本記事では、自治体の公表資料や歴史的記録(一次資料)を基に、甲子園競輪場の基本情報から、競輪界の構造を根底から変えた「鳴尾事件」、ユニークな施設運営、廃止の裏にあった社会的背景、そして閑静な住宅街へと生まれ変わった跡地の現在までを詳しく解説します。


1. 甲子園競輪場の基本情報

まずは、甲子園競輪場の概要と設備に関する基本データを紹介します。

■ 基本スペック一覧

項目内容
所在地兵庫県西宮市南甲子園1丁目8-33(※現存せず)
開設日1949年(昭和24年)6月20日(「鳴尾競輪場」として開設)
閉場日2002年(平成14年)3月31日(本場最終開催は3月10日)
走路(バンク)500m(開設当初) → 400m(1964年秋に色付きアスファルトに改修・最大カント31°24′32″)
施行者兵庫県市町競輪事務組合(西宮市など兵庫県内の17市町で構成)
土地・施設所有兵庫県市町競輪事務組合(専用競技場)
マスコットキックル君
主な開催レースオールスター競輪(GI・1999年)、甲子園ゴールデン杯(GⅢ)など

開設当初は「鳴尾(なるお)競輪場」という名称でしたが、1951年(昭和26年)に鳴尾村が西宮市に編入合併されたことに伴い、全国的知名度の高い「甲子園」の名を冠した名称へと変更されました。


2. 競輪史上最悪の暴動「鳴尾事件」とその衝撃

甲子園競輪場の歴史を語る上で避けて通れないのが、開設翌年の1950年(昭和25年)9月9日に発生した「鳴尾事件」です。これは日本の公営競技史において最悪の騒擾(そうじょう)事件として記録されています。

■ 事件の発端と大暴動

当時の一次資料(事故報告書等)によると、事件のきっかけは第11レースの競走中に発生した「自転車部品(クランクピン)の緩み・破損」による人気選手のトラブルでした。

選手はレースのやり直しを求めましたが認められず、結果大敗。レースは万車券の波乱となります。これを巡る判定に対して観客から不満が爆発。興奮した群衆がバックスタンドからバンク内へ乱入し、締め切られたメインスタンドのガラスを破壊、さらには施設への放火や略奪にまで発展しました。

事態を重く見た主催者側は警察隊の出動を要請し、最終的に約250名が逮捕されるという、前代未聞の事態となりました。

■ 国家レベルの存廃論争へ

この事件の衝撃は凄まじく、国会をも巻き込む「競輪存廃論争」へと発展しました。結果として、全国一斉の競輪開催自粛や、自転車競技法の抜本的な改正(実用車から競走専用車への移行、管理体制の強化など)が行われ、今日の近代化された競輪運営の礎が築かれるきっかけとなったのです。


3. バンクの中にゴルフ場?ユニークな多目的利用

鳴尾事件という激動の黎明期を乗り越えた甲子園競輪場は、その後、昭和の高度経済成長期からバブル期にかけて高い収益を上げ、西宮市をはじめとする構成自治体の財政を大いに潤しました。

また、甲子園競輪場は「ギャンブル場」という閉ざされたイメージを払拭するため、競輪が開催されていない日(非開催日)の敷地有効活用に非常に積極的でした。

  • 甲子園倶楽部(ゴルフ練習場): 1957年、バンク内部にあった池を埋め立て、なんとバンクの中にゴルフ練習場を開設。後年にはパターゴルフ場も併設されました。
  • 市民への施設開放: 地下の検車場スペースを「卓球場」として1時間50円で一般に貸し出したほか、敷地内の一角にあったテニスコートも格安で市民に開放していました。

このように、地域のスポーツインフラとしての側面も併せ持つ、全国的にも極めて珍しい運営が行われていました。


4. 廃止に至った背景:赤字転落と「文教住宅都市」の壁

順調に見えた甲子園競輪ですが、1990年代後半(平成後半)に入ると急速に追い詰められていきます。

■ 売上の低迷と西宮競輪との共倒れリスク

バブル崩壊後の長引く不況やレジャーの多様化により、車券売上はピーク時から右肩下がりに減少。1998年には起死回生を狙って「オールスター競輪(GI)」を誘致・開催したものの、長期的な減少傾向を止めることはできませんでした。

施行者である「兵庫県市町競輪事務組合」は、同じ西宮市内にある「西宮競輪場(阪急西宮スタジアム)」も運営していたため、2つの競輪場が同時に赤字を垂れ流す構造を維持することは自治体財政上不可能と判断され、2002年3月をもって西宮・甲子園の両競輪場を同時に廃止するという苦渋の決断が下されました。

■ 都市ブランドのイメージとのジレンマ

もう一つの大きな要因は、地元・西宮市が1963年(昭和38年)に掲げた「文教住宅都市宣言」でした。

市が「美しい住環境と教育の街」としてのブランディングを推進する中で、市南部の広大な一等地にギャンブル施設が存在し続けることに対し、市民や議会から厳しい目が向けられるようになります。他場で効果を上げていた「ナイター競輪」の導入なども模索されましたが、周辺住民の強い反対や警備上の懸念から断念せざるを得ず、結果として収益を改善する手段をすべて失う形で廃止へと追い込まれました。


5. 跡地の現在:巨大なレジデンス街と、今も残る「キックル君」

2002年(平成14年)3月10日の最終レースをもって、甲子園競輪場は機能を停止しました。その後、しばらくは選手の練習場や甲子園球場の臨時駐車場として使われていましたが、同年末には完全に閉鎖され、解体工事が始まりました。

約6万8千平方メートルに及ぶ広大な跡地は民間に売却され、現在は巨大な住宅エリアへと変貌を遂げています。

■ 閑静な大規模ニュータウンへ

跡地の北側には21階建てを中心とした総戸数600戸を超える大規模分譲マンション(「ジークレフ甲子園」など)が建設され、南側には200戸以上の美しい分譲一戸建ての街並みが整備されました。かつて多くのファンが行き交い、怒号と歓声が響き渡っていた空間は、現在では子どもたちの声が聞こえる平穏な高級住宅街となっています。

■ 唯一の遺構:車止めに残るマスコット

当時の面影を残す建造物は一切残っていませんが、跡地北側の歩道(かつての正門・無料送迎バス乗り場付近)には、唯一の歴史の証人が遺されています。

歩道の安全を守るために設置された石造りの車止め(モニュメント)の側面に、甲子園競輪場のマスコットキャラクターであった「キックル君」のイラストマークが今もそのまま刻まれています。

何気ない街の風景に溶け込んでいるこの小さなマークこそが、かつてこの地に「競輪の聖地」が存在したことを今に伝える、貴重なメモリアルとなっています。


まとめ:激動の時代を駆け抜け、住宅街に溶け込んだ聖地

甲子園競輪場は、戦後の混乱期に「一村の存続」を賭けて誕生し、競輪界を揺るがす大事件の舞台となり、やがて都市の発展を支え、最後は街の近代化と共にその役割を終えました。

物理的な施設はすべて失われましたが、かつてこの場所が持っていた広大な空間は、現代の西宮を支える良質な住環境へと受け継がれています。「キックル君」の小さなマークを見つめながら、かつての熱気を静かに見守るかのように、甲子園競輪の記憶は今も街の底に眠っています。