神奈川県横浜市鶴見区にかつて存在した花月園競輪場(かげつえんけいりんじょう)。鶴見駅近くの高台に位置し、競輪ファンから「お山」や「花月の丘」の愛称で親しまれたこの競輪場は、1950年の開設から60年間にわたり数々の名勝負を生み出してきました。しかし、公営競技を取り巻く環境の変化に伴い、2010年(平成22年)をもってその長い歴史に幕を閉じました。

本記事では、自治体や中央官庁の公開資料(一次資料)を基に、花月園競輪場の基本情報から、華やかな歴史、泥沼化した廃止の舞台裏、そして劇的な変貌を遂げた跡地の現在までを詳しく解説します。

1. 花月園競輪場の基本情報

まずは、花月園競輪場の概要と設備に関する基本データを紹介します。

■ 基本スペック一覧

項目内容
所在地神奈川県横浜市鶴見区鶴見1丁目1-1(※現存せず)
開設日1950年(昭和25年)5月18日
廃止日2010年(平成22年)3月31日(本場開催終了)
走路(バンク)400m(見かけ上の直線はやや短い)
施行者神奈川県競輪組合(神奈川県、横浜市、横須賀市で構成。※平成26年度末に解散)
土地・施設所有花月園観光株式会社(開催当時)
主な開催レース菊花賞典(GIII・記念競輪)、日本選手権競輪(GI・1989年)、オールスター競輪(GI・2006年)など

鶴見駅近くの丘陵地に位置していたため、周囲を急な坂道に囲まれており、スタンドからの見晴らしの良さも特徴の一つでした。

2. 遊園地から競輪場へ:独自の歴史

「東洋一の遊園地」としてのルーツ

花月園競輪場を語る上で欠かせないのが、その前身です。大正時代から昭和初期にかけて、この地には「東洋一の遊園地」と称された「花月園遊園地」が存在していました。大連の遊園地をモデルに作られた広大な敷地には、大毎音楽堂や各種アトラクション、動物園、ホテルなどが整備され、一大レジャーゾーンとして栄華を極めました。

戦災復興の財源としての誕生

しかし、第2次世界大戦の激化とともに遊園地は閉園へと追い込まれます。戦後、焦土と化した神奈川県や横浜市などの自治体は、都市復興のための貴重な財源(戦災復興費用)を確保する必要に迫られました。

そこで、1948年に制定された自転車競技法に基づき、遊園地の跡地を利用して1950年(昭和25年)5月18日に「花月園競輪場」が開設されることとなったのです。

開設後は、地理的優位性(東京・横浜からのアクセスの良さ)もあり、連日多くのファンで賑わいました。1989年には最高峰の格式を誇る「日本選手権競輪(ダービー)」を開催。2000年代に入ってからも「全日本選抜競輪(2001年)」や「オールスター競輪(2006年)」が開催されるなど、南関東の競輪界を牽引する聖地として君臨しました。

3. 廃止に至った背景:累積赤字と訴訟の真実

一時は莫大な収益を自治体にもたらした花月園競輪ですが、平成の不況とともに深刻な経営危機を迎えます。経済産業省や横浜市の資料から、その具体的な要因が浮かび上がります。

売上の激減と恒常的な赤字

バブル崩壊以降、レジャーの多様化やインターネット投票の普及(当時は本場への入場者減少に直結)、さらには景気の低迷により、公営競技全体の売上が急減しました。

花月園競輪場においては、1998年(平成10年度)に約416億円あった売上が、わずか2年後の2000年度には約280億円へと激減。その後も収支の悪化は止まらず、民有地・民有施設であることから発生する高額な「施設賃貸料」や「委託料」が重くのしかかり、累積赤字は47億円〜66億円(報道・資料による)にまで膨れ上がりました。

苦渋の廃止決定と「借上開催」による戦後処理

経済産業省の車両競技分科会資料によれば、「有効な打開策はなく、累積赤字解消の目処が立たないため、事業継続は困難」と判断され、施行者である神奈川県競輪組合は2010年3月をもって花月園競輪場の廃止を決定しました。

しかし、競輪場が廃止されたからといって、組合がすぐに解散できたわけではありません。残された巨額の赤字を処理するため、組合は「川崎競輪場」や「小田原競輪場」の施設を借りてレースを主催する「借上開催(代替開催)」を平成22年度から平成26年度まで実施しました。これにより得られた収益や人件費の削減などを通じて組合債(借金)を完済し、2015年(平成27年)3月末をもって神奈川県競輪組合は正式に解散となりました。

土地・施設を巡る法廷闘争

また、廃止直後には、施設の所有者であった「花月園観光株式会社」と土地の借地権などを巡って法廷闘争(借地権確認訴訟)へと発展しました。最終的には2011年(平成23年)4月5日に和解が成立。県が和解金を支払うことで、花月園観光から施設が県へ無償譲渡(所有権移転)され、その後に解体撤去が行われました。

4. 1万人が涙したラストレース

2010年(平成22年)3月31日、花月園競輪場はついに最終開催日を迎えました。

この日は長年の感謝を込めて「さよならイベント」が盛大に実施されました。世界選手権10連覇の偉業を持つ中野浩一氏をはじめとする往年の名選手(OB)が集結し、模擬レース「花月園スーパーレース」やトークショーが行われ、場内は往時の熱気を取り戻したかのような盛り上がりを見せました。

最終レースが終了したのち、これまでファンを隔てていた金網が開放され、「バンクウォーク(走路の一般開放)」が行われました。約1万人のファンが実際にバンクへ足を踏み入れ、カント(傾斜)のきつさに驚きながら、記念写真を撮ったり、レースの終わりを告げる「打鐘(ジャン)」を代わる代わる叩いて、涙ながらに「お山」との別れを惜しみました。

5. 跡地の現在:防災公園「鶴見花月園公園」への再生

競輪場の解体後、広大な跡地(約10.7ヘクタール)は、横浜市と独立行政法人都市再生機構(UR)の手によって、大規模な都市再生プロジェクトへと移行しました。

令和3年に「鶴見花月園公園」が開園

周辺に避難場所や緑地が少なかったことから、この土地は「防災公園街区整備事業」として一体整備されることとなり、2021年(令和3年)11月1日に地区公園「鶴見花月園公園」(約4.3ヘクタール)として開園しました。

この公園には、かつての競輪場の記憶を想起させるような広大な空間が広がっています。

  • 大原っぱ(草地広場):公園の中心にある、1周約400mの広大な芝生広場。かつての400mバンクを連想させる設計。
  • 多目的広場:現況の地形(高低差)を活かし、球技なども楽しめるスペース。
  • 遊具広場:子どもたちが安心して遊べる大型遊具や、横浜市のご当地要素を取り入れたエリア。

防災拠点としての機能

平常時は市民の憩いの場、子どもたちの遊び場として賑わっていますが、災害時には大規模な広域避難場所として機能するよう、耐震性貯水槽や防災トイレなどのインフラが地下に完備されています。また、周辺の宅地化も進み、現在は最新の集合住宅(マンション)などの整備が順次進められています。

まとめ:「お山」のレガシーは市民の憩いの場へ

遊園地、そして競輪場として、大衆の熱狂を受け止めてきた鶴見の高台「花月園」。

時代の波に押されて競輪場としての役目は終えましたが、現在は形を変え、地域住民の命を守り、子どもたちの笑顔が溢れる緑豊かな防災公園へと見事な転換を遂げました。かつて400mバンクを駆け抜けた選手たちの熱気とファンの声援の記憶は、今も広大な「大原っぱ」の景観の中に、確かなレガシーとして息づいています。